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た魚がボンゲのラインまでおりてくる。そのボンゲを目標に網を張った。
今、千葉の船が東京や神奈川の海で操業することは規則でできないが、30年代初めの東京湾には、まだ漁業権を放棄していない東京都の漁師がいたし、巻網は入会が認められていたから他県の海で働いた。江戸前の荒川河口、葛西沖、羽田の隣りの大森ワンド、こうしたところもソコリになると、深さ5〜6メートルのケタにスズキやフッコがつけていた。川崎もいまのようなフェリーの発着所もなかったし、このあたりも好漁場で、30センチメートル級のイシモチを一網で満船にするというような漁がよくあった。湾口から上がってくる魚が、必ずそこにつけるという浅海にそういう地形があったのである。
今度は、東京湾の東側を南下すると、春にはいまの千葉港のあたりでクロダイ、コハダ、サヨリなんかをタタキでとった。初夏に入ると稲毛や検見川の下で働く。遠浅であったから。風があるとナグロがグーンとたって、そのナグロの間で働いたのを覚えている。
五井の鼻は藻場で、ここも魚の巣であった。30年代の漁は船橋から今のように遠出はしなかった。せいぜい上総、五井、姉崎、長浦ぐらいまでであった。
40年代後半、船橋沖の埋め立てが本格的に始まるとヘドロが舞い上がり、この沖に魚が寄り付かなくなった。そこで、片道3時間、往復6時間かかるが、自然に盤洲から木更津沖へ出漁するようになった。木更津港はまだなく、沖からタカへ接近して行くと10メートルほどのケタヘ上がる。そのケタにはきまったようにスズキがつけていた。もっと接岸すると桜井の下は一面の藻場で水面下に群れるイシモチの背が真っ赤に見えたものである。十頭、十五頭と群れを成して小型潜水艦のようなゴンドウクジラが木更津沖で遊んでいたのもこのころである。
そのように埋め立て前の東京湾漁業というのは浅海漁業であったし、内湾の漁師は自然に適応した形で漁をしていた。今、内湾に残された浅海は少ない。東京都の荒川河口の三枚州、市川や船橋沖の三番瀬、木更津北方にある盤洲、それに冨津岬の周辺にわずかに残るだけである。盤洲は自然の水際線、豊かな干潟を持ち、湾内では唯一の絶対に人工的にいじってはいけない再生産の場となっている。
昭和30年代の前半と比べれば湾の変わりようはものすごい。海からの風景がだいいち違う。陸が変われば海も変わる。埋め立ては多くの魚と漁師を海から追放してしまった。いや、その前に魚介類の生息環境が理め立てられてなくなってしまったのだから、干潟の生き物が死滅してしまった。そして魚がいなくなってしまった。埋め立ての結果多くの漁師が陸に上がり転業して、残った漁師は少なくなったが、魚をとる技術は反対に進歩しているで、漁獲量は維持しているが、その魚種は寂しい限りである。
自然の東京湾を埋め立てた今、東京湾の海水を全部干したとしたら海底はどういう状態になっていると思われるだろうか。昭和30年までの東京湾は遠浅の海で、4キロ、6キロにおよぶ干潟がぐるりと湾を取り巻いていたことは前述した。ところが、現在の海底の状況は、そこかしこに巨大な穴ぼこが東京湾せましと掘られている。千葉県側についていえば、埋め立てを行った浦安沖(東京ディズニーランド付近)から、現在、北袖といわれる姉崎、盤洲の牛込漁港の手前まで、深さ15メートル、20メートル、30メートルといった大小さまざまな穴が掘られている。そしてこの巨大な穴は一直線に並んでいるのではなく、チェッカーズフラッグのように格子状に少しずつずれて連なっている。どうしてこのようになっているかというと、東京湾の埋め立ての多くはかつての遠浅の海だった干潟の半分を陸地にするために、沖側の残りの半分を埋め立てるための土取り場にしたためにできた穴なのである。普通、素人考えでは埋立地の造成は、陸の土、関東でいえばローム層の赤土を使えばいいと思いがちであるが、陸の土は海に入れるとパウダー状になって固まらないのである。ところが海底の砂は海の底で安定しているし、水捌けもよいのである。埋立地周辺の海底は、乱掘そのものの状態で掘られて、その土で埋立地を造成したのである。これらの埋立地造成や航路整備のために多くの浚渫が行われた。その結果、東京湾では青潮の発生頻度が高くなったり、湖の流れや速度が大きく変わってしまった。乱掘や浚渫がもたらしたもう一つの影響は漁場が回復するまでに時間がかかるということである。埋め立てが終了してから5〜6年しなければ漁場としての機能は回復できないのである。
昭和48年からは東京の葛西沖、51年春には千葉県稲毛

 

 

 

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